novel / parallel

A Little World.

 月と星には無限の可能性があるらしい。
 白い光が満ちては欠けること、瞬く光が表情を変えること――そこには、誓って証明するべき原理と原則がある。

01. 星のかけら

 小さな灰雪が、ふわりふわりと舞い落ちる。雪模様の午後、グレーに染まる空からは、わずかな日の光さえも届かない。果然冷たい仕事部屋で、ネジは、頭を抱えたくなる現実に直面していた。

「ネジ。もうすぐオレはここを出ることになった。悪いが新しい助手を探してくれ」

 天体の研究職に就いて三年。代々継承するこの世界で、やっと芽が出ようかという矢先に、助手を務める親戚のコウが辞めることになった。引き止めようにもネジの生まれた堅苦しい一族の決めごとは絶対で、「承諾」の選択肢しかないため、否が応でも甘んじるしかなかった。
 あと少しで新たな糸口が掴めそうなのに、ここでコウが抜けるとなると、大きな痛手となることだろう。頭が痛かった。

「立派な研究者を目指すなら、血の力がなくとも、一般からの希望を得るべきとの見解だそうだ」

 長らく一緒にやってきたというのに、淡々と言い放つコウの表情からは、本心を窺い知ることはできなかった。……少しは寂しがってほしいと思うのは、身勝手だろうか?
 小さくため息をつきながら、殺風景な室内を見渡す。ずっと男二人だった自宅兼職場には、一切の彩りもなかった。そう、ここには地球儀と天体望遠鏡、作業机、古びたソファぐらいしか物がないのだ。ふと窓の外に視線を移しても、ご多分に漏れず灰色で、心は沈む一方だった。

 ネジの住むこの街では、一年のほとんどが根雪に覆われている。束の間の春、庭に成る姫林檎の赤だけが、唯一の有彩色とも言えるぐらい色がない。かつてはきれいなミントグリーンだったはずの家の外壁は、次第に色褪せ、淡い灰みに変容していた。

「早く求人を出したほうがいいぞ」

 手元の書類を束ねながら、目も見ずにコウが言う。

「……言われなくても分かっている」

 なかなか有能だった彼の代わりが、そう簡単に見つかるだろうか? 神速に不安になる。ところがネジの心配をよそに、現実主義のコウはもう引き継ぎの準備を始めていた。二つ年上の助手ではあったが、ネジとしてはそれなりに上手くやってきたつもりだったというのに、今の彼の態度を見ていると、それも一方通行だったのかもしれない。言いようのない温度差を感じて、悲しくなった。

「しかし困ったな。誰か来てくれるだろうか」

 大陸の最果ての、星くずが降り注ぐ街。ここでは、天体の研究が盛んにおこなわれている。
 この冬は突破的な流星群が多く観測されていて、一瞬たりとも空から目を離すのは本位ではないが、人手も重要な問題なので、職業紹介所に求人を出しに行くことにした。如何せんネジの属するヒュウガ一族は弱小で、この地域を牛耳るウチハの勢力には敵わない。ウチハに限り買い手市場のこの職種も、他の一族には売り手に勝るものはなかった。加えて白茶けたネジの屋敷に住み込みで来たいという物好きは、めったにいないかもしれない。重ねてため息をついた。

 白いシャツの上に、ツイードのベストとジャケットを羽織る。さらには中綿のトレンチコートを着込み、首にはマフラーを巻いた。最後に革の手袋とブーツを身に着けて、万全の状態で家を出た。


  *****


「もうお金も尽きてしまった……。行くあてもないし、私、このままどうなってしまうのかな?」

 今朝、狭い宿を出てから一人、ヒナタは水のない噴水の広場で呆然としていた。正確には、張ってあったであろう水が完全に凍っていて、噴水としての役割をまったく果たしていない様子だった。

 ときおり灰色の雪が舞うこの公園で、脈絡なくうろうろと歩き回る。だんだん足が疲れてきたので、仕方なく凍てついたベンチに腰を下ろした。
 冷めた空気が頬を刺す。寒さには慣れたつもりだったが、空腹のせいか、いっそうの寂しさが募る。こんなことなら、どんな手を使ってでも、元いたボロ屋に居座ればよかった――。

 今でこそ独りぼっちだが、天涯孤独というわけではない。少し前までは、五つ年下の妹と一緒に暮らしていたのだ。だが、両親を知らずに貧乏だった二人は、いずれ住んでいたアパートを追われる羽目になった。そして、自分はともかく妹には最低限の教養をつけてやりたいからと、この春から学費を前借りして、寮から通わせているのだった。
 その後ヒナタは一間の集合住宅に引っ越し、妹に仕送りをしながら慎ましく暮らしていた。しかし、頼りにしていた内職も極端に減らされ、一年も経たずして家賃を滞納し、無慈悲な大家に追い出されてしまった。どうにか大きな街へ出てきたものの、このままでは、自分はおろか妹の生活まで立ち行かなくなるかもしれない。思わず涙がこぼれた。
 乾いた風にさらされて、ただでさえ冷たい頬から、余計に体温が奪われていった。

 それにしても、今日は少しも太陽が顔を出さない。春まで雪が根付くこの街も、存外降雪量は少なく、淡いグレイッシュブルーの空は、代名詞でもあるというのに……。なおもって、こんな日は夜が早くやってくる。今夜は流れ星が見られるだろうか? 張り詰めたほどに澄んだ空気の中、妹と夜空を見上げて、星々を指でなぞった記憶は、ヒナタの心の支えでもあったから……。
 いくら貧しかったと言えども、生まれてこの方野宿なんてしたことがない。とはいえ、せめてきれいな星空の下で眠りたいと願うのは、ただの我儘なのだろうか。そもそも、氷点下の空の下、なけなしの薄着で眠りにつけるとも限らないし、最悪の場合、そのまま一生目覚められないかもしれない。吐いたそばから真っ白に染まる息で指先をあたためるも、限界までかじかんだ手に、まるで効果はなかった。

 ……どれくらいの時間が経っただろう? 底知れぬ寒さに震えて俯いていたら、夕闇で真っ青に染まる視界に、突然、無数の光が飛び込んできた。
 すかさず顔を上げる――すると、樹氷を綾なす色とりどりの電飾が、一斉に音楽を奏でるかのごとく、きらきらとざわめいていた。赤や緑、青や金。小さな光の群れが、共鳴するかのようにたゆたう様は、切り取って飾っておきたいくらいにきれいだった。

「わあ……! すごい……」

 歯の奥がうるさいくらいに音を立てている。手と足の感覚はもうない。それでも、こんなにもあでやかな景色を目にしては、心を動かされずにはいられなかった。

「ここにハナビもいればよかったのに……。でも、それだと寒い思いをさせてしまうから、だめかな……」

 即座に現実に戻される。そうだ、今夜の自分の寝床もないのだ。妹に夜景を見せている場合ではない。お金になるものはすべて売り払い、唯一手元に残った黒いワンピースに着古したモスグリーンのコートを着て、ほぼ身一つで放り出されることになってしまった。安価な布製のブーツには雪が滲み、つま先はもはや自分のものではないみたいだ。あまりにもみすぼらしくて、情けなくなってくる。寒さとひもじさというのは、ほぼ同義なのかもしれない。
 歌でも歌っていれば少しは気が紛れるだろうか? 震える声で、昔妹と覚えた民謡を口ずさむ。結局、虚しさは増す一方で、どこまでも途方に暮れるだけだった。


  *****


 役所の帰りに、ネジは、世話になった部下に美味いものでも食わせてやろうと、大きなマーケットに寄った。ところが……、

「コウの好きな食べ物は何だったかな」

 三年間の共同生活の中、彼の好物すら知ろうとしなかった自分に、言いようのない不甲斐なさを感じた。これではせいせいしたと言わんばかりに出て行かれても、あまり文句は言えないだろう。仕方がないので、男なら誰しもが好みそうなボリュームのあるものをかごに入れた。骨付きハム、ミートローフ、ミモレット……胃にもたれそうな組み合わせではあったが、どれか一つでもコウの口に合えばいいと、深く考えずに買い求めた。
 日が沈み鋭い寒さに包まれる時刻、市場の中も人はまばらで、窓の外、遠くに見えるイルミネーションだけが、唯一にぎやかに見えた。

 会計を済ませて外へ出たら、荷物を抱えて空を見上げる。昼間は厚かった雪雲が散らされ、今にも落ちてきそうなほどの星々が、窮屈そうにひしめき合っていた。

「早く帰らないと……そろそろコウも腹が減っているかもしれない」

 人々に散々踏み固められ、さながらスケートリンクのようになった雪の上を、急いで歩く。太陽の恩恵を受けられなかった今日のような日は、ことさらに冷え込むものなのだ。マフラーも手袋もまったく意味を成さず、芯まで冷えが沁みる中、満天の星明かりだけを頼りに、自分以外にほぼ人のいなくなった雪道を進んだ。
 雪の華咲く針葉樹林帯を越えたら、噴水の広場が見えてくる。ネジの屋敷は、そこを抜けて数分歩いた先に位置している。ここからだとあとニ十分ほどだろうか。公園のイルミネーションの点灯時刻にはぎりぎり間に合わないかもしれないが、いまさら見てどうこう思うものでもない。ネジにとって、それは日常に溶け込むほどに当たり前の風景なのだ。

 どこからともなく雪がちらついてきた。相変わらず夜空には星が瞬いたまま、その光を拾って、宝石のように輝いている。まるで星のかけらが降り注ぐかのように、この上なく空気は澄んでいた。

 そのまま、果てしなく白い、白い道をまっすぐに進むと、ようやく噴水が見えてくる。そこで幸いと言うべきか、まだ鮮やかな光に包まれた花道を通ろうとした、その瞬間、

「なんだ、もう終わりか……」

 視界がふっと真っ青になり、すべての光彩が、一気に沈んでいった。心なしか静けさが増した気がして、いささか残念に思う自分が、心底意外だった。

 それにしても、今夜は流星群が特別よく見える。早く帰って観測を再開しなければならない。重い荷物を抱え直し、再び夜空へと視線を移した。深い、深い青を駆けるほうき星が、絶えず視界を攫ってゆく。

「……きれいだな。やっぱり、イルミネーションなんかよりずっと」

 毎日変わらず目にしている空。間違いなく同一のものではあるが、それが同じ色に染まることは、二度とない。しっかりと記憶に焼き付け、足元へと目をやった。すると――。

「星?」

 消灯したはずの公園に、明るい光のかけらが見て取れる。……もしかして、あまりにも流星が多すぎて、一つくらい落ちてきたのかもしれない。これは一世一代の発見かもしれないと、慌てて駆け寄った。が、

「星……ではないな。何だ? いや、誰だ?」

 そこにあったのは決して星などではなく、ひどく弱り果て、今にも消え入りそうな一人の女だった。

「おい、大丈夫か? こんなところで何してる? 身売りか?」

 パンジーブルーの長い髪には、無数の星彩が反射している。向こう側まで透かせそうな白い肌には、わずかな赤みも見られない。人形のように生気のないその様子に、これはただごとではないと、危機感を覚えた。

「何でそんなに薄着なんだ? 死にたいのか? おい、何とか言え」

 応答がなくとも、繰り返し声をかけずにはいられなかった。当然のごとく反応はなく、ひどい焦燥感に襲われた。

 程なくして、ふらりと倒れ込んできたその女の体は、信じられないほどに軽かった。

あとがき


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